於大の方

徳川家康の母として知られる於大の方です。
於大の方もまた、戦国の世の中で波乱の人生を歩んだ内の一人といえるでしょう。


於大の方に関連する岡崎市の史跡には、大泉寺があります。


於大の方


戦国の世を統一しその後300年に渡る太平の世の中の元を築いた家康であるが、その大偉業を成し遂げた家康の人格は自身の優れた思慮や深い修養から来たものもあります。
しかし、それだけでなく生母 於大の影響も大きくあったと思われます。
於大の方の子に対する慈愛と心配りがあり、あるときは表面から、またある時は裏面から母の力が家康を支えていました。




於大の方の一生を簡単に紹介します。


享禄元年(1528年)本刈谷の城内(緒川城)に生まれた。
父は亀城初代の城主 水野忠政。母は於富の方。
於大の方という愛らしい幼名であり、御台様、大上様とも呼ばれた。 


於大の方が十四歳のときに、戦国の世の波が押し寄せることになります。


その前に、その当時岡崎で力を伸ばしていた松平清康へ於大の母である於富が嫁ぐことになりました。
さらに清康の死後、その子 広忠が父のあとを継ぎ、14歳の於大が正室として迎え入れることになりました。
松平家に嫁いでからは、あとを継ぐ子供の誕生が期待され。
1543年に安産で男児を無事出産して、竹千代(後の家康)と命名された。


於大の父 水野忠政病死後、信元があとを継ぐと、水野家は、それまでついていた今川方から離れ織田方へとつくことになりました。
今川についていた松平家は、今川への忠誠を示す為に、織田側についた水野家と断交するため於大の方と離婚することになります。
これにより竹千代(家康の幼名) 3歳のときに岡崎を離れることになった。


於大20歳のときに阿久比城主 久松俊勝の下へ再婚することになり、三男三女をもうけました。しかし、竹千代のことは片時も忘れることはなかったとのことです。
家康との音信を絶えず取り続けていました。


家康が、桶狭間の戦い以後、今川との関係を絶ち織田氏と同盟を結ぶとともに、久松俊勝と於大の三人の息子に松平の姓を与えて家臣とし、於大を母として迎えました。


於大の方は、夫である久松俊勝の死後に、剃髪して伝通院と称するようになりました。


1602年には、秀吉未亡人北政所おねや後陽成天皇に対して、徳川氏が豊臣氏に敵意がないことを示しました。同年、家康の滞在する京都伏見城で61歳で死去しました。