奥殿陣屋跡

奥殿陣屋


奥殿陣屋は宝永四年(1707年)奥殿松平四代乗真の時、陣屋を大給から岡崎の奥殿町へ移し、文久三年(1863年)信州へ移転するまでの間 奥殿藩領民支配の中心となっていたところです。

その当時、奥殿藩は三河に四千石と、信州佐久に一万2千石を領していました。



徳川家康の祖四代松平親忠の二男乗元が大給に大給松平をおこしました。

徳川秀忠に仕え、大坂の陣の戦功を挙げた五代真乗の次子 松平真次が祖父の旧地を望み、額田、加茂郡で七千石を受け奥殿藩を開き、真次の長子乗次が一万六千石の大名となりました。

正徳元年(1711年)四代乗真は大給城地の役宅を交通・政治に至便な奥殿に移し、陣屋を構えました。(文久三年(1863年)十一代乗謨のとき陣屋は信濃国佐久郡田野口へ移されました。)
奥殿陣屋 書院

書院への入り口です。無料で入れます。

奥殿陣屋は、御殿、書院、役所、学問所、道場などの建物がありましたが、今では、書院の一部と給藩士の中根鎮夫氏宅の土塀にわずかな面影があるだけになってしまいました。
この建物は明治9年(1876年)陣屋の取り壊しに伴い龍渓院庫裡として移転、さらに昭和六十年(1986年)再度移築したものです。

奥殿陣屋 室内

書院の中


なお、この奥殿陣屋から輩出した幕末の偉人としては七代藩主の五男として生まれた茶道裏千家第十一世玄々斎宗室があげられます。
玄々斎宗室は幕末より明治維新にいたる動乱期にあたり急速な西欧化による伝統文化の衰退と茶道界の苦境を憂い、近代茶道の復興に尽力しました。
玄々斎宗室は茶道裏千家の再興のみならず、全国茶道界発展の先駆者として貢献しました。
奥殿陣屋 玄々斎

こんな掛け軸がありました。



十一代藩主乗謨は江戸幕府の陸軍総裁 老中格となって将軍慶喜を補佐し、困難に対処しながら信州佐久にフランス式星型の竜岡城五稜郭を築きました。
殖産には薬用人参日本一の生産地の基礎を拓き、明治新政府では日本赤十字社の創設、賞勲局総裁、枢密院顧問官などで活躍し、正二位伯爵を得ました。

その他、長崎海軍伝習所長、築地軍艦操練所の総督として、日本海軍の創設や、幕末の大政奉還に尽力した永井玄頭尚志や奥殿代官で領内に善政を敷いた海保忠典、そして明治三十二年に工学博士となった中山秀三郎などを輩出しています。
奥殿陣屋 庭園

見事な日本庭園です。


竹と奥殿陣屋

奥殿陣屋の周辺は岡崎の嵯峨野と言われるほど至るところに見事な竹林が見られます。この大部分は、代官であった伊予田邦介の努力によって作り上げられたものです。

奥殿陣屋 竹林

邦介は天保元年(1830年)奥殿藩信州領の殖産興業席代官として奥殿へ赴任してきました。そして畑には桑を植えさせて養蚕を勧め、山にはその地に適した木を、急傾斜地や川端には治山治水を兼ねて竹を植えさせるなどの事業を行っていきました。
こうした邦介の見識と努力によって、百数十年を経て豊かな竹林に育ち、食料、建築資材、竹細工などとしても広く恩恵を与えています。

各種資料館・バラ園
奥殿陣屋 資料館

資料館では詳しく歴史が学べます。

奥殿陣屋 三河花火

三河花火に関する資料館です。

バラ園が併設されています。(もちろんこちらも無料です。) 奥殿陣屋 バラ園

少し時期が良くなかったです。
たくさんの種類のバラが見られるので、花が好きな人にお勧めです。

奥殿藩 藩主廟所

奥殿藩主は、徳川氏の祖、松平四代親忠の二男乗元を城主として分立した大給松平氏の一族です。 大給松平氏の墓所は三代乗成のときに整備され、四代乗真のとき、赤坂浄土寺とあわせて埋葬地となりました。八代乗尹の墓は奥殿林宮寺、十一代は麻布香林寺にあります。 ここ奥殿藩の藩主廟所は三河地域の中でも、墓塔が壮大です。 奥殿陣屋 藩主廟所

奥の小高いところにあります。



住所:岡崎市奥殿町雑谷下10番地
電話:0564-45-7230
アクセス:名鉄バス 奥殿陣屋
駐車場:あり