信光明寺

信光明寺は、この寺は、宝徳三年(1451年)に岩津城主松平三代信光が祖父親氏、父泰親の菩提をとむらうために岩津に創立したものである。音蓮社釈誉上人を開山とし、信光の名をとり信光明寺と名付けられました。

信光明寺
徳川将軍家ゆかりの名刹です。往時壮麗を誇った堂宇は、伊勢新九郎(北条早雲)に放火され消失しましたが、焼け残った観音堂は室町中期の建築様式を今に伝え、国の重要文化財に指定されています。観音堂の屋根の軒先のそりの深さ、総門の屋根に上がっている鬼瓦などは他では見られないものです。


信光明寺 門


少し離れたところに門があります。



信光明寺 門2


門から保育園を挟んで、第二の門と信光明寺が見えます。


信光は文明三年(1471年)岩津から安詳を攻め次いで岡崎を降ろして西三河にその名を誇示していました。
文明十年(1478年)に法堂(現在の観音堂芭蕉天神御本地)を建立し(棟札あり)翌年十一年に勅願所になりました。
文明十七年(1485年)に修復を行い長享二年(1488年)七月二十二日信光が没すると廟がたち天文年中修理がありました。
天正年中武田信玄の率いる伊勢新九郎(北条早雲)の兵火にあうも観音堂は免れました。
信光明寺 観音堂


重要文化財の観音堂です。



観音堂は、棟札によれば文明10年(1478年)に建立されたもので、方三間、入母屋造り、こけら葺きで、周囲を石で畳んだ土壇上に立ち、土間床となっています。
その構造は、正面中央間を入り口とし桟唐戸をとりつけ、両脇間に花頭窓を設け、斗組は二手先詰組、軒は二軒扇垂木、内部は周囲一間通りを化粧屋根として、入側斗組で囲われた身舎部分を鏡天井張りとし、後方の入側柱と前方の側柱上斗組との間に大虹梁をかけ、前の入側通りに大瓶束を立てています。
この堂は中国から禅宗が伝来すると同時に日本に輸入された禅宗仏殿という建築様式でつくられており、日本建築の歴史の重要な一端を担った建築様式の実例が残されている点で貴重な建築物です。
信光明寺 鐘





慶弔七年(1602年)には寺領(128石)の朱印状をもらい、寛永十七年(1640年)には、諸堂宇の修理を行いました。

万治二年(1659年)には唐門を建て翌三年には客殿以下のの再建を行い第十世大誉上人を中興の祖として再建修理が行われ信光明寺の景観が整いましたが、江戸末に火災があり観音堂と唐門を残して全焼してしまいました。



裏手の一段高い墓所に松平三代 親氏・泰親・信光の墓があります。



芭蕉天神

信光明寺芭蕉の天神は宝暦九年(1795年)正月 住職誉上人将軍年頭御礼のため江戸へ赴く途中駿河国で病に倒れました。由井にて宿をとりこの辺りの芭蕉(地方名)の天神に祈願したところ病気も直り無事江戸の御用を済まし帰国しました。
この帰国の時に天神へ寄り、分霊を受けました。
上人は神体(菅原道真公)を彫刻し観音堂にしばらくの間安置するも山の上(現在岩津天満宮地)へ社殿を整え芭蕉天神を祀った。明治九年神仏混清禁ぜられ芭蕉天神御尊体を信光明寺内へ移しました。

岩津城址

ここ、信光明寺の裏手の丘は、その昔松平三代信光がこの地方の勢力をのばしす本拠地にしたといわれる岩津城の跡です。
実際には遺構というほどのものは何も残ってません。ただ、丘の裾の北側に往時の堀跡らしいものがわずかに跡を残しています。
岩津城址跡

一言でいって良く分かりませんでした。
何となく城跡といわれればそんな感じもします。



この城の眼下、円福寺より南にかけて信光は母の菩提を弔うため妙心寺を建てましたが、1503年今川氏の武将、北条早雲の兵火に焼かれてしまいました。



住所:岡崎市岩津町
電話:0564-45-2100
アクセス:名鉄バス 岩津天神口 徒歩10分
駐車場:あり(数台止めることができます)